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「クレオパトラとエジプトの王妃展」研究員のおすすめ作品(2)

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「クレオパトラとエジプトの王妃展」はおもしろい。

これまでのエジプト展といえば、どこに行ってもファラオ、ファラオ、ファラオ。
もうそろそろファラオ展はいいだろう。
むしろ近年研究が進んできた王妃や女王に焦点を当て、新たな視点で古代エジプトを俯瞰してはどうか。
これが今回の企画の出発点だった。

王妃・女王といえばクレオパトラ(クレオパトラ7世)。
よし、クレオパトラ展だ!
しかし、大きな問題あり。
クレオパトラに関するモノが圧倒的に少ない。これはクレオパトラのお墓が発見されていないことや彼女が住んでいた王宮が海に沈んでしまったからともいわれる。
では、クレオパトラ以外の王妃・女王たちにもご登場いただこう。

しかし、強敵がいた。
昨年、東京都美術館で開催された「メトロポリタン美術館 古代エジプト展 女王と女神」。
先を越されたか?!
でも、待てよ。この展覧会はメトロポリタン美術館の所蔵品のみで構成されたもの。
これに対し、当方は世界14ヵ国から集められた作品群で構成。文字通り世界中から王妃・女王に関する作品を集めたものだ。コンセプトは似て非なるもの。
気を取り直し、みんなでがんばった成果がこの特別展。
そして、実際展示されている作品も王妃や女王のものだけではない。ここに彼女たちを取り巻く男たちの物語も仕込まれている。それが最後の展示室で展開されているのだ。

ここには、クレオパトラを取り巻く3人の男たちの肖像が並ぶ。
まずはカエサル(No.169)。

カエサル
ローマ時代(前27~前20年頃) イタリア出土
ヴァチカン美術館蔵


言わずと知れたローマの英雄。しかし、巷では「ハゲの女たらし」「借金王」そして「遅咲きの英雄」などと揶揄されたともいう。
前髪を垂らしたその髪型は、後に「シーザーカット(カエサルカット)」と呼ばれ、ヨーロッパでは古くから男性の典型的な髪型の一つとして定着。
この像は老練な軍人・政治家としてのカエサルを表現したものとされるが、その表情からは「ハゲの女たらし」までを読み取ることはできない。
権力闘争に敗れ、一時王位を失ったクレオパトラはローマの時の権力者カエサルに保護を求める。
カエサルは彼女の魅力、知性に呑み込まれたのか、彼女を援護し、見事、エジプトの女王に復活させる。
クレオパトラに魅せられ、メロメロになったなどといわれるカエサルであるが、彼女を正式な「妻」とすることはなかった。
彼は彼女を政治的に利用したに過ぎないとする説すらある。
カエサルはクレオパトラをあくまで「愛人」としてクールに愛したのではないか。
これぞ大人の恋の駆け引きか。

次に、アントニウス(No.170)

アントニウス
ローマ時代(後1世紀頃) イタリア出土
ヴァチカン美術館蔵


カエサルの部下として数々の戦いで活躍。共和政ローマの軍人であり政治家。
帝政ローマのギリシア人著述家プルタルコスは、「アントニウスは威厳に満ちたオーラを放ち、張りでた額や高い鼻はヘラクレスを思わせる男性的な力強さをもっていた」と記している。
この表現にぴったりなのが、このアントニウスの像だ。

紀元前44年にカエサルが暗殺されるとクレオパトラはこのアントニウスに近づく。
そしてカエサル同様、アントニウスもクレオパトラの虜になり、彼女と運命を共にする。
No.173の銀貨の表裏それぞれに刻まれた二人の肖像が端的に当時の二人の関係を物語っている。
 
クレオパトラとアントニウスの銀貨
(左)クレオパトラ (右)アントニウス
プトレマイオス朝時代 クレオパトラ7世治世(前51~前30年)
シリア出土
古代オリエント博物館蔵


アクティウムの海戦で大敗したアントニウスとクレオパトラ。クレオパトラは先にアレキサンドリアに撤退。
これを追ってアントニウスもアレキサンドリアへ。そこでアントニウスはクレオパトラの死を告げられる。
しかし、これは誤報。そうとも知らず彼は失意のうちにクレオパトラの後を追うかたちで自殺。
男の美学がここにある。
これを知ったクレオパトラはそのおよそ10日後、オクタウィアヌスのはからいを受け入れず、自害。
39年の生涯を終える。

最後に、オクタウィアヌス(No.171)。

オクタウィアヌス
ローマ時代(前30年頃) ローマ出土
大英博物館蔵


カエサルはクレオパトラとの間に儲けたカエサリオンではなく、養子であるこのオクタウィアヌスを後継者とした。
先にも記したように、アクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラを敗り、二人を死に追いやり、古代エジプト最後の王朝、プトレマイオス朝を終わらせた男。この像は理想化された若きオクタウィアヌス。
その表情はきわめて冷静。
彼は若い頃は病弱で、いつも腹巻・襟巻・毛の帽子を離さず、薬も持ち歩いていたという。
しかし、意志力と決断力は優れていたといわれる。
この力こそ、後にローマ帝国初代皇帝として君臨するアウグストゥスを生んだのである。

このオクタウィアヌスは他の二人の男たちのようにクレオパトラに惚れなかったのか。
もうクレオパトラなど何の役にも立たず、と切り捨てたのか。
逆に、クレオパトラも女を武器に彼に近づかなかったのか。
いや、愛するアントニウスを死に追いやった憎き敵将になど心許せるはずはなかったか。
多くの疑問が頭をよぎる。

いずれにせよ、自ら死を選んだクレオパトラ。
クレオパトラはこうした男たちがいたからこそ歴史に名を遺す女王として古代エジプトに君臨したのである。

世の女性たちよ。この展覧会は、いかに女性が偉大なる存在であるのかを確認するものであるが、こうした三者三様の男たちの物語もどうぞお忘れなく。

最後にカエサルの名言、「来た、見た、勝った!」をもじり、この展覧会を次の言葉で締めくくるとしよう。
「来た、見た、よかった!」


親子でエジプト探検 in ナイト・ミュージアム

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2015年8月22日(土)、ファミリーワークショップ「親子でエジプト探検 in ナイト・ミュージアム」が行われました。
家族連れ19組、52名の皆さんが参加されました。

このワークショップは、東洋館2階3室で行われている特集、親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」と、ミュージアムシアターで上演している「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」に関連して行われました。

閉館時間の6時から始まったワークショップ。
東洋館のミュージアムシアターに、夕方から続々と親子連れの皆さんが集まり始めました。
シアターにて

まずはごあいさつ。
エジプトの壁画の研究を長年されている村治笙子先生と、探検隊ふうのいでたちの研究員(私です)が今日の案内役となります。
ごあいさつ

本日、ナイト・ミュージアムを探検するにあたり、参加者の皆さんのミッションは「古代エジプトの人たちの死生観について知ること」「ミイラについてくわしく知ること」です。

それでは展示室に出発!

…と思ったら、展示室のシャッターが閉まっていたので、すぐに警備スタッフの方に、開けていただきました。

…が!なんとシャッターの向こうの展示室が真っ暗です!
暗い展示室をのぞこうしたら、参加者のお一人が、「今日は探検だと思ったから」とヘッドライトを持参されていました。
準備万端、すばらしいです。
探検隊長(私です)のヘッドライトは、電池切れでした…。
展示室へ

無事に電気もついて、展示室に入ることができました。
3室の親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」では、まずいろいろな動物さがしをしました。
展示室

ネコ、ライオン、ヤマイヌ、トキ、ハヤブサ、カバなど、さまざまな動物が展示室に隠れていました。
村治先生によると、これらは、古代エジプトで信仰されていた神さまが、動物たちの姿で表わされているものなのだそうです。
動物たちは、人間にはない素晴らしい能力を備えた神聖な存在だったのですね。
神さまたちは「芸術」「知恵」「豊穣」「子宝」など、それぞれの守備範囲があり、その力を動物の姿であらわしたようです。

展示室にて解説

次はミイラのお話です。
参加者全員でミイラを取り囲みながら、観察して気がついた点を子どもたちが教えてくれました。
顔がまっくろ、髪の毛がない、布が巻かれている、いれものがまっくろだけど、字が書かれている!など、いろいろな意見が出ました。
村治先生からも、くわしくお話をしていただきました。

古代エジプトでは、死後の世界でも、永遠の命を授かり、生前と同じような暮らしを送ることが理想とされました。
そのために魂が戻る先として、体をミイラにして永遠に保存しようとしたのだそうです。

ミイラをみる子どもたち

このミイラ、パシェリエンプタハさんという男性なのですが、この日は50人以上の参加者の皆さんに取り囲まれて、かなり賑やかでうれしかったのではないでしょうか。

このあと、子どもたちは「古代エジプトでは、死んだらどうなる?」というワークシートに挑戦しました。
ワークシート

4つのミステリーを解いたワークシートを機械にかざすと、ミイラがあらわれ「最後の暗号」を教えてくれるというもの。
あちこちで、「おぉー!」という驚きの声が上がっていました。

そして最後に、ミュージアムシアターに戻り、
スクリーンの上でミイラについて詳しく説明された映像を見ます。
ここで探検隊にかわって村治先生と共に皆さんを案内してくださるナビゲーターは、八木ファラ夫さんです。
再登場された村治先生は、なんとエジプトの王妃のようないでたちです!

村治先生と八木ファラ夫さん

ファラ夫さんが映像を操作し、パシェリエンプタハのミイラをCTスキャナーで撮影してわかったことを教えてくれました。

ミイラ映像の解説


また、展示室で見たときにはまっくろに見えたカルトナージュ棺にはどんなもようが、どんな色で描かれていたのかも映像で再現されました。
展示室で見るのとは全くちがったその色鮮やかな様子に、驚いた方も多かったようです。

棺にはほかに、ヒエログリフという絵文字でさまざまな情報が書かれており、それも村治先生が解読してくれました。
「パシェリエンプタハさんに、神さまから供物と食料が与えられますように」
という内容で、彼が死後の世界で永遠に生きるために、のこされた人たちが願いをこめてこのミイラを作ったことがうかがえます。

今日のワークショップでは、古代エジプトの人たちが、死ぬことをどれだけ重く、大切に考えていたのかがよく分かりました。
死んだ人のためにお墓を建てたり、お墓参りに行く私たち日本人と、共通するところもあるような気がしますね。

夜8時までのワークショップでしたが、参加者の皆さん、目を輝かせながら最後まで楽しんでくださいました。

参加者

ナイト・ミュージアムは、また内容を変えていつかぜひ行いたいと思っています。
お楽しみに!



  親と子のギャラリー「ミイラとエジプトの神々」(東洋館3室)は、9月13日(日)まで、
VR作品「東博のミイラ デジタル解剖室へようこそ」(東洋館ミュージアムシアター)は、10月12日(月・祝)まで開催中です。
 

「クレオパトラとエジプト王妃展」研究員のおすすめ作品(3)

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「クレオパトラとエジプトの王妃展」で開催したキッズデーでは、何人かの子どもたちからから古代エジプトのレリーフについての質問がありました。
レリーフとは、浮彫りとも呼ばれる平面を彫り込んで図像や装飾を表わしたものです。

今回の特別展では、数多くのレリーフが出品されていますが、「アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ」(No.140)はその代表。
これらのレリーフは本来、王宮や神殿などの壁を飾り、彩り与えていました。
古代エジプトのレリーフは、いずれも目が魅力的。
王妃ティイの瞳もまるでこちらを見つめているようです。


アメンヘテプ3世の王妃ティイのレリーフ
テーベ西岸、ウセルハト墓(TT47)出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
ブリュッセル、王立美術歴史博物館蔵
(C)RMAH



さて、子どもたちからの質問はというと「どうしてレリーフのなかの人物はみんな横向きなの?」というものでした。
子どもたちの素直な発見にうれしくなり、一緒にレリーフのなかの登場人物のまねてみますが、うまくできません。
そこで初めて、子どもたちに古代エジプトのレリーフの表現方法のルールを説明しました。
古代エジプトのレリーフに表わされた人物は、顔や腕や足は横向き、目や肩は正面から表現されています。つまり、視点が一定ではなく、表現された人物の特徴が最もよく表された部分を組み合わせて描かれているのです。
さらに頭、胴、足の大きさの比にも規則があることで、レリーフのなかにたくさんの人物が登場しても整然とした印象を与えるのです。
さまざまな場面や物語をレリーフに表わすために、このような方法が古代エジプト美術では発展しました。

たくさんの人物が登場するレリーフの例として「王の養育係の長メリラーと王子のレリーフ」(No.68)を見てみましょう。


 
王の養育係の長メリラーと王子のレリーフ
(写真下左:レリーフ上段/写真下右:レリーフ下段)
サッカラ出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
ウィーン美術史美術館蔵
Kunsthistorisches Museum Vienna


上下に2段に、ふたつの場面を表すレリーフ。
上段ではメリラーが妻と神に捧げものをする場面、下段には王子を育む場面が表現されています。


本展で皆さんを最初にお迎えするレリーフが「ラメセス2世のレリーフ」(No.9)です。

ラメセス2世のレリーフ
新王国・第19王朝時代 ラメセス2世治世(前1279~前1213年頃)
滋賀・MIHO MUSEUM蔵


地にはレリーフの表面を整えた際のノミ痕がうっすらと残る一方で、弓をひくラメセス(ラムセス)2世の姿が丁寧に彫られています。
ラメセス2世は王権を守護するウアジェト女神を象徴するコブラのついた青冠を被り、頭上には聖蛇ウラエウスがついた日輪が表現されています。
この日輪と青冠には当時の赤と青の彩色が残されています。

ラメセス2世は、ラメセス大王とも呼ばれる古代エジプトを代表するファラオです。
世界史の教科書では、ヒクソスとのカデシュの戦いの後、世界最古の国際条約である講和条約を結んだ王として登場することから、みなさんもご存知かと思います。
60年を超える長い治世の間に多くの神殿や記念物そして彫像を作った王としても著名です。
なかでも、よく知られるのがアブ・シンベル大神殿です。
そして愛する王妃ネフェルトイリのためにアブ・シンベル小神殿もつくりました。

本展では、古代エジプトのレリーフが数多く出品されています。
子どもたちの発見を参考に、ご覧になってみてください。

「クレオパトラとエジプトの王妃展」が20万人を突破!

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大好評で連日たくさんのお客様においでいただいている「クレオパトラとエジプトの王妃展」ですが、9月9日(水)に20万人目のお客様をお迎えしました。
ご来場いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。

さて、記念すべき20万人目のお客様は、横浜の堀内美里さんとお母様の真理子さん。
比較的空いていそうな雨の日を狙ってお越しいただいたそう。

美里さんには、東京国立博物館学芸企画部長 井上洋一より、記念品として特別展図録、展覧会オリジナルTシャツ、そしてマンガ『王家の紋章』とコラボした展覧会のミニガイドブックを贈呈しました。


「クレオパトラとエジプトの王妃展」20万人セレモニー
左から
堀内真理子さん、美里さん、井上洋一学芸企画部長
9月9日(水)東京国立博物館 平成館ラウンジにて

堀内さん親子は、今日は国立科学博物館の「生命大躍進」展から当館の「ブルガリ」展と2つの展覧会を回ってのご来館!
大学で国際関係の勉強をしている美里さんは、「エジプトといえば、まずピラミッドやナイル川が生んだ肥沃な大地など、ステレオタイプなイメージだが、展覧会を通して知識を広げられれば」と語ってくださいました。
また、この夏に中国を訪れたばかりで中国史にも特に興味があり、10月27日(火)から始まる特別展「始皇帝と大兵馬俑」にも是非来てみたいとのこと。
兵馬俑展以外にも、トーハクではこのあとも続々と注目の展覧会やイベントが目白押し。
館内には「あ、こんなこともやるんだ!」という情報がたくさんありますので、チラシや看板、ポスターのチェックもお忘れなく。

さて。あっという間に9月も第2週。
シルバーウィークのご予定はお決まりでしょうか?
今週から表慶館では、「アート オブ ブルガリ  130年にわたるイタリアの美の至宝」も開幕しました(観覧には別料金が必要)。
同展ではエリザベス・テイラーが映画「クレオパトラ」で使用した衣装も展示されており、クレオパトラに関するコラボレーションが期せずして実現しています。
1度の来訪で2つの展覧会と出会える、1粒で2度おいしいトーハクへどうぞお越しください。

皆様のご来館を心よりお待ちしております。

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」天下分け目のアクティウム

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「クレオパトラとエジプトの王妃展」のヒロイン、クレオパトラ。
彼女の人生を語るときに必ず登場するのが、アクティウムの海戦です。
今回の1089ブログは、特別編として、ギリシア・ローマ考古学が専門の青柳文化庁長官が、アクティウムの海戦を語ります。


紀元前31年9月2日、ギリシアのイオニア海側にある小さな町、アクティウムの沖でくり広げられた海戦は、ローマの命運を決した戦いでした。
カエサルが紀元前44年に暗殺されて以降、その名声と財産は二人の男に受け継がれました。
一人はカエサルの甥で弱冠19歳のオクタウィアヌス(のちのアウグストゥス)。
もう一人はカエサルと戦場をともにし、輝かしい戦功を挙げた将軍マルクス・アントニウス。
二人はカエサルの暗殺者たちを成敗するまでは互いに協力しあったばかりか、オクタウィアヌスの姉の小オクタヴィアがアントニウスと結婚し、強い絆で結ばれます。
しかし、東方世界を統治するためにエジプトに赴いたアントニウスはクレオパトラ(7世)とともに暮らすようになり、その地からローマ世界全体の支配を目論むようになります。
オクタウィアヌスと覇権をかけた戦いが不可避となった紀元前32年、両者はギリシアに進軍し総力戦の時期を互いにうかがっていました。

決戦の準備を進めていたマルクス・アントニウスは、アテネに滞在中、パルテノンの東側に並ぶ彫像のなかからディオニュソス像だけが崖下の劇場に落ちました。
このことをひどく気にしたアントニウスは、敗戦の予兆であることを懸命に打ち消し、自ら広言していたディオニュソス再来説を否定するほどでした。
カエサルとともに輝かしい武勲をあげた武将も、オクタウィアヌスの影におびえたのか、冷静な判断に欠けていた。
圧倒的な兵力を擁していながらクレオパトラの主張によって海上での戦いを選択したアントニウスは、アクティウム沖の海戦で決着をつける決心をし、陸上と海上の兵力すべてをアクティウム周辺に集結させました。
一方のオクタウィアヌス軍は歴戦の将軍であるアグリッパが指揮をとり、アントニウスとクレオパトラの艦隊を封じ込めるような戦陣をとります。



9月2日朝から小さな海上戦がいくつか繰り広げられましたが、互いに譲ることなく膠着状態になっていました。
この時、クレオパトラは自らの艦隊を率いて突如戦線を離脱するという行為にでます。
浮き足立ったエジプト軍は戦陣をたてなおすこともできず、ついにアントニウスも戦陣を離れ、クレオパトラの後を追うことにしました。
この結果、雌雄を決した海戦はオクタウィアヌスの勝利に終わったのです。


アクティウムの海戦のレリーフ
ローマ時代 ユリウス・クラウディウス朝(前27~後68年)
カルドナ公爵コレクション


 
(左)オクタウィアヌスが乗る船/(右)アントニウスが乗る船


海戦で敗退し、アレクサンドリアでの篭城戦に場所を移したものの結末は明らかでした。
翌年、武将にふさわしくアントニウスは自らの命を絶ちました。
アントニウスの死後、オクタウィアヌスに捕らえられたクレオパトラも、毒蛇に身を噛ませ、女王としての威厳をたもちながら亡くなります。
ほぼ1世紀にもおよぶ内乱が終結し、地中海域で唯一のこされていたエジプトは、オクタウィアヌスによって併合が完了しました。

本展覧会の最後の部屋に展示されている浮彫りは、このアクティウムの海戦を表すとされています。
100年もの長い内戦の末の決戦、アクティウムの海戦の様子を見ながら、エジプトを守るために身を犠牲にして活躍したクレオパトラにぜひ思いを寄せていただきたいと思います。

「アート オブ ブルガリ  130年にわたるイタリアの美の至宝」開幕!

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アート オブ ブルガリ  130年にわたるイタリアの美の至宝」が、いよいよ9月8日(火)に開幕しました!
開幕に先立ち、9月7日(月)には開会式・内覧会を行い、多くのお客様にご出席いただきました。


開会式の様子(左から吉見読売新聞社事業局長、ジャン-クリストフ・ババン ブルガリ グループ CEO、赤池文部科学大臣政務官、東京国立博物館銭谷館長)

本展覧会の会場は表慶館です。
明治末期の歴史ある建物とブルガリの美が見事に融合しています。


エントランスの天井を見上げると、プロジェクションマッピングにより、万華鏡のような景色が・・・

各展示室は時代ごとに分かれており、創業131年を迎えるブルガリの歴史を辿ることができます。
宝石の美しさはもちろんのこと、大胆な配色や、日本文化の影響を受けたユニークなモチーフなど、バラエティ豊かなジュエリーに驚かれることでしょう。


Room1 展示風景


Room4 展示風景

また、ブルガリをこよなく愛した名女優エリザベス・テイラーにまつわる展示も、本展の見どころです。
エリザベス・テイラーが俳優リチャード・バートンから婚約の証に贈られたブローチなど、ブルガリジュエリーが彼女の人生に寄り添ってきたことが感じられる空間となっています。


Room8 展示風景 映画「クレオパトラ」で実際に着用した衣装も飾られています


Room9 展示風景 本展チラシ掲載の「ソートワール」(プラチナ、サファイア、ダイヤモンド  1969年)

まさに「至宝」と呼ぶにふさわしいコレクションの数々。
会期は9月8日(火)~11月29日(日)です。
この秋、表慶館でブルガリの美をご堪能ください!

 

春日の神々に出会う

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いま、本館の特別1室では、「春日権現験記絵模本Ⅱ―神々の姿―」と題する特集を行なっています(10月12日(月・祝)まで)。
この特集は、奈良市に鎮座する春日大社に祀られる神々の利益と霊験を描く春日権現験記絵模本の魅力とともに、春日信仰の諸相を様々な角度からご紹介する2回目の試みです。昨年は「美しき春日野の風景」をテーマに、描かれた聖地・春日野の風景や、美しい朱塗りの社殿などから、春日の神々への多様な信仰をご紹介しました。今回は「神々の姿」をテーマとしていますが、展示場面を見ていく前に、この絵巻模本についてご紹介しておきましょう。

今回展示している春日権現験記絵模本の原本=春日権現験記絵は、三の丸尚蔵館が所蔵する全20巻の絵巻です。鎌倉時代の後期、時の左大臣西園寺公衡の発願により、高階隆兼という宮廷絵所絵師によって描かれました。通常紙に描かれることの多い絵巻としては異例の絹に描かれおり、数ある絵巻作品の中でも最高峰の一つに数えられています。
江戸時代の半ば頃になると、こうした貴重な絵巻の模本を作ろうという動きが活発化してきます。今回展示しているのは、紀州(和歌山)藩主徳川治宝の発案により、林康足、原在明、浮田一蕙、冷泉為恭、岩瀬広隆といった復古やまと絵師たちによって写されました。模写にあたっては大変な苦労があったことが、附属の目録に記されています。

 春日権現験記絵(模本)目録 長澤伴雄筆
春日権現験記絵(模本) 目録 長澤伴雄筆 江戸時代・弘化2年(1845)
模写プロジェクトを任された長澤伴雄が、模写の経緯を記しています。様々な苦労を経て完成した際の興奮がほとばしります。


さて、話を今回のテーマ「神々の姿」に戻しましょう。
この絵巻では、春日の神々は様々な姿で人の前に姿を現わしています。とりわけ多いのが人の姿。春日社の主な祭神は、本殿に祀られる武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)、比売神(ひめがみ)とともに、若宮(わかみや)をあわせた五柱の神です。武甕槌命、経津主命、天児屋根命は男神であるため束帯姿で、比売神は女神であるため女性の姿で、また若宮は御子神とされるため童子の姿で人びとの前に顕現しています。

春日権現験記絵(模本)巻第10
春日権現験記絵(模本)巻第十
樹上で舞を舞う束帯姿の春日明神。

春日権現験記絵(模本)巻第十
春日権現験記絵(模本)巻第十
雲に乗る女性姿の春日明神。

春日権現験記絵(模本)巻第十四  冷泉為恭他模  江戸時代・弘化2年(1845)
春日権現験記絵(模本)巻第十四

老僧の膝の上に乗る童形の春日明神。


こうした人の姿とともに、仏の姿でも顕現する場面もあります。日本の神とは、仏が仮の姿で現われたとする「本地垂迹説」という考え方がその背景にあります。

春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日権現験記絵(模本)巻第十一
春日三宮が地蔵菩薩の姿で現われたところ。



さて、こうした様々な姿で人びとの前に現われる春日の神々ですが、場面を追っていくといくつか特徴的な点が見えてきます。その一つが、いくつかの例外を除き神の顔を描いていない点です。後ろ向きに描かれる場合はもとより、時に霞や樹木、建物を不自然なまでに配し、神の顔を描かないことに配慮しています。ここには、神の姿を顕わに描くことに対するはばかりがあったと考えられています。

春日権現験記絵(模本)巻第七
春日権現験記絵(模本)巻第七
画面には春日の二柱の神が描かれていますが、見つけられますか?樹木によってそのお顔が隠されています。



もう一つの特徴が、人が神に出会うタイミングが夢の中だということです。昼日中に堂々と、神が人の前にその姿を現わすことはほとんどありません。漆黒の夜の闇の中にこそ、人が神と出会う舞台が用意されていると言うことができます。

春日権現験記絵(模本)巻第十五
春日権現験記絵(模本)巻第十五
伊勢の斎宮の前に現われた春日明神。みなぐっすりと眠っています。


こうした夢以外の、神と出会う重要な場面は人が死に直面した時です。この絵巻では臨終の場面で神に出会う話や、いったん地獄に堕ちた人間が春日明神のおはからいによって救済された話なども描かれています。

春日権現験記絵(模本)巻第六
春日権現験記絵(模本)巻第六
春日明神のおかげで地獄行きを逃れた男。春日明神の案内でこれから地獄ツアーに向かいます。


そして、神々に出会うために何よりも重要なのは、春日の神々への深い崇敬の念です。この絵巻を見た人びとも、神との縁を結ぶため、敬神の思いを新たにしたことでしょう。
今回の展示では、春日の神々の描かれた場面を特に選んで展示するとともに、神と仏が一体化した信仰形態を示す画像も展示しています。

春日本地仏曼荼羅
春日本地仏曼荼羅 鎌倉時代・13世紀(2015年9月23日(水・祝)まで展示)
春日野の景観とともに、春日の神々の本来の姿であるとされる仏(本地仏)の姿を描きます。


神々の姿は本来目に見えないものとされます。ですが、どうしても「見たい」という人びとの強い思いによって「神々の姿」は画像として表わされました。
幕末やまと絵師たちの画技とあわせ、多様な「神々の姿」をご覧になりに、是非とも展示室にお運び下さい。
 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」研究員のおすすめ作品(4)

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「クレオパトラとエジプトの王妃展」第2章「華やかな王宮の日々」では、白い壁紙の展示室で王とその家族を支えた人々の姿と華やかな装飾品を鑑賞した後、赤い壁紙で統一された部屋へと入っていきます。



ここは「グラーブのハーレム」コーナー。
グラーブとは、マディーナト・グラーブと呼ばれている遺跡のことで、新王国時代には王宮を伴う町がありました。
発掘された王宮に属する建物の大部分は、王家の女性たちが暮らした「ハーレム(後宮)」であったとされています。

このグラーブが最初に発掘されたのは、今から100年以上も前、1889年のことでした。
発掘したのは有名な考古学者、フリンダース・ペトリーです。

当時の考古学は「お宝探し」の側面が強かったのですが、ペトリーは、土器のかけらなど、美術品としての価値がほとんどない出土物であっても、記録を残し、資料として出版しました。
それらを分類して分析するなど、学問としての考古学の基礎を作った人物です。
日本で最初の考古学講座は1916年に京都大学に設置されますが、その初代教官は、ロンドンでペトリーに師事した浜田耕作でした。
ペトリーは日本における考古学の誕生と、その後の発展にも大きな影響を与えたのです。

「グラーブのハーレム」コーナーに戻りましょう。
ここではペトリーが発掘したたくさんの出土物が展示されています!
エジプト考古学の黎明期を示す展示作品をいくつか、ペトリーの出版した報告書とともにご紹介しましょう。

 
左:双耳長頸壺/右:青色彩文土器
グラーブ出土
新王国・第18~19王朝時代(前1550~前1186年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


ペトリーは、グラーブの墓から出土したこれらの土器の実測図を作成して出版しています。
印をつけたものが上の2件の作品の実測図ですが、おわかりでしょうか?

W. M. F. Petrie, Kahun, Gurob, and Hawara, London, 1890, Pl. XXI.

次は「ハーレム」で暮らした高貴な女性たちも使ったであろう品々です。


ファンアンス容器
グラーブ出土
新王国・第20王朝時代(前1186~前1069年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


ロータスに水鳥というエジプトらしい絵柄が描かれたこの美しい壺は、香油の容器だったと考えられます。
「鐙壺(あぶみつぼ)」と呼ばれるミケーネ土器を模倣した容器です。
当時、高級オイルや香油はエーゲ海地域で生産され、「鐙壺」に入れられて、エジプトにも輸出されていました。

ちなみに、本場の「鐙壺」はこちら。

ミケーネ考古学博物館蔵

アーチ状の把手が、馬具の鐙のように見えるので、「鐙壺」と呼ばれます。
この把手とは別に、注ぎ口が取りつけられている点が特徴です。
人差し指と中指で把手を持ち、親指でその真ん中を抑え、中身の液体を注ぎ出しました。

特別展で展示されている作品は、エジプトで製作されたもの。
当時、「鐙壺」はおしゃれな容器として定着していました。
そこで、エジプトのファイアンス職人は、「鐙壺っぽい」ファイアンス容器を作ったのです。
「鐙壺っぽい」と書きましたが、実はこのファイアンス容器、独立した注ぎ口がなく、把手の中央部が注ぎ口になっている「似て非なるもの」。
鐙壺の機能よりも雰囲気が大事だったのでしょうか。

ペトリーの報告書ではこのように描かれています(左上の図)。

W. M. F. Petrie, Illahun, Kahun, and Gurob, London, 1891, Pl. XX.

手描きならではの味がありますね。
ちなみに左下も展示作品で、「女性スフィンクスが描かれたファイアンス容器」(No.88)です。


 
左:ガラス容器/右:ペトリーの報告書の図(Petrie 1991, pl.XVIII:19 )
グラーブ出土
新王国・第18~19王朝時代(前1550~前1886年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


このガラス容器も香油などを入れるためのおしゃれな容器でした。
粘土などでつくった芯に、ガラス棒を巻きつけて作られた容器です。
表面の文様も、溶けた色ガラスの棒を巻き付け、固まる前に引っ掻いて作り出されたもの。
素材となったガラス棒はこのようなものです。


色ガラス断片
エジプト出土
新王国~初期イスラム時代・前16世紀~後8世紀頃
百瀬治氏・富美子氏寄贈
東京国立博物館蔵(現在は展示されていません)


古代エジプトでは、色ガラスは宝石と同様でした。
例えばツタンカーメン王の黄金のマスクも、青色ガラスで彩られています。
このガラス容器のかたちもまた、エーゲ海やシリア・パレスチナ地域で生産され、輸出されていた壺の形を模したものです。本来は把手が2つついていたと思われます。

「グラーブのハーレム」コーナーの注目作品をもう1つご紹介します。No.78「王妃ティイの供物台」です。


王妃ティイの供物台
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
マンチェスター博物館蔵
(C)Manchester Museum, The University of Manchester


本展覧会が注目する王妃の一人であるティイが、夫アメンヘテプ3世のために用意した供物台で、刻まれた碑文からは、強い絆で結ばれていた夫への愛情を感じ取れます。
ペトリーもこの供物台の資料的価値を評価し、供物の絵柄とヒエログリフがはっきりわかるスケッチを出版しています。

Petrie 1891, Pl. XXIV

クラーブは湖と豊かな自然を満喫できるファイユーム・オアシスへの入口に位置します。
ここに王宮を建設したのはトトメス3世(治世:前1479~前1425年頃)。
グラーブの王宮は、王にとってはリラックスして過ごせる離宮でした。
王がグラーブに滞在したのは1年のうちのわずかな期間だったと推測されます。

そうすると、王が不在の間、ハーレム(後宮)の女性たちは何をしていたのでしょうか。
実は彼女たちは、機織りなどの仕事を持っていたことが知られています。
つまり、ハーレム(後宮)には王室の工房としての側面がありました。
生産されていた、薄くて白い亜麻布は、当時は貴重で高価なものでした。
出土した碑文から、「機織りの長」という称号を持つ女性がいたことがうかがえます。
クラーブでも紡錘車や糸玉など、亜麻布生産に関連する出土物が多数出土しています。


左:紡錘車/右:糸玉
グラーブ出土
新王国・第18王朝時代(前1550~前1186年頃)
マンチェスター博物館蔵


「クレオパトラとエジプトの王妃展」で展示中のグラーブ出土品の大部分は、マンチェスター博物館からお借りしています。
実はこれらの品々、マンチェスター大学が資料として保管しているもので、同大学博物館で展示されている作品ではないのです。
ということは・・・本展覧会は、「グラーブのハーレム」で発掘された出土物をまとまって鑑賞できる大変貴重な機会!
会期終了まであと1週間とちょっと。まだご覧になられていない方は、ぜひ展覧会へお急ぎください。


能の裏側体験!

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トーハクは、多くの能面、能装束を収蔵しており、現在、本館14室では特集「能面 女面の表情」(10月4日(日)まで)を、本館9室では「能「紅葉狩」にみる面・装束」(11月3日(火・祝)まで)という展示を行っています。
600年以上、大切にその歴史を紡ぎ、伝えられてきた日本の文化であり、総合芸術と評される能。
でも能って、知っているようで知らない。よくわからない。
残念ながらそんな存在かもしれません。
能面や能装束に至っては、どれも同じにみえる、という声をよく耳にします。
もちろん、本当はいろいろな種類があって、それぞれの造形には個性が感じられます。

その魅力をお伝えし、トーハクの能面や能装束をもっと楽しんでもらいたいと思い、企画されたのが、その名もずばり、ワークショップ「能の裏側体験!」です。
能舞台のないトーハクでは本格的な能をご覧いただくことはできません。
でも能で使われる能面や能装束を間近で見られる博物館であることを活かし、客席からではわからない能の裏側の体験をし、楽しみ親しむ時間となりました。

ワークショップを開催した9月12日。東京は久しぶりの晴天でした。
講師は観世流シテ方能楽師 浅見慈一氏。
「能って何?」という質問に、わかりやすく答えてくださいました。
「600年前から続く、日本のミュージカル」
「能面をつけるのもおおきな特徴です」
「山や海などの背景はお客さんが想像しないといけない。みんなの想像力が必要な演劇ですね」

浅見氏インタビュー



展示室で室町時代や江戸時代につくられた能面を見ます。

展示見学

「よく見てごらん。何歳くらい?どんな性格?話せるとしたら何と言いそう?下から見たり、上から見たりしてごらん。」
こんなふうに声をかけるといろんな声が上がります。

「意地悪そう」「悲しそう」「お母さんと同じくらいの年!」「下から見ると顔変わった!」
見方によって表情が変わったように見えたり、性格を細やかに表現していたりします。
立体の彫刻である能面をじっくり見る楽しみを感じてもらえたかな。


さあ、それでは能面をかける体験、能の基本動作「ハコビ」の体験です。

お稽古

能楽師の浅見慈一さんと小早川泰輝さんが楽しく教えてくれ、真剣にお稽古スタートです。
好きな能面をかけて、立ち上がり、歩いてみます。
能面をかけると視野は通常の10パーセントになるといいます。だからこそ足を摺って足裏の感覚をたよりに歩くんだという浅見さんの言葉にみんな納得。

「ハコビ」のお稽古

小早川さんのわかりやすく楽しいお話を聞きながら扇を持って「ハコビ」のお稽古。
小早川さんの動きは軽やかに見えますが、私たちがやってみるとうまくはいきません。
その動きが実は大変な運動だと気づきました。能の舞台に立つって大変・・・
舞台ではさらに能面をかけるんですよね。あ、舞台では当然、重い衣裳も着けるんですよね。

どんなふうに着るのか、浅見さんがモデルとなって見せてくれました。
着付も大変そう・・・ 
みんなでお手伝いしました。
衣裳や鬘に触れるなんて、貴重な経験です。

着付



そして最後に、能「巴」の一場面を見せてくれることに。
博物館には能舞台がありませんのでワークショップ特別バージョン。
浅見さんがひとりで巴を演じ、小早川さんがひとりで謡をしながら後見までしてくれました。
印象的なストーリーと舞を見て、参加者はみんな引き込まれていきます。

能「巴」

能面は能に使う道具です。
これをかけると、自分ではない「役」に変身することが出来ます。
いろいろな便利な道具が出来ても変わらずに、いまもひとつひとつ木でつくられています。
無表情の代名詞に使われることがありますが、じつは能楽師の演技によって表情豊かに見せることができます。
それをねらっての造形ともいえるでしょう。
しかも能楽師にとって命よりも大切なものとして代々伝えられるそうです。
ひとつひとつの造形美を楽しむことも大切ですが、やはり能楽師にどう使われ、どう伝えられてきたかを知ることで、よりその造形を理解できるような気がします。
参加者のみなさんは、どう思われましたか?
浅見慈一さん、小早川泰輝さん、ありがとうございました。

 

「クレオパトラとエジプトの王妃展」スカラベを読もう!

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「クレオパトラとエジプトの王妃展」は、9月23日(水・祝)までと、会期残りわずか!
そこで、今回は本展監修の近藤二郎教授に、見逃し厳禁のおすすめ作品をご紹介いただきます。



早稲田大学の近藤二郎先生
エジプト学が専門で、主にアメンヘテプ3世時代の高官や王墓の研究をされています


私のおすすめは、新王国・第18王朝時代、アメンヘテプ3世(前1388〜前1350年頃)の記念スカラベです。
スカラベとは動物の糞を球形に丸めて巣まで運ぶ俗称「フンコロガシ」と呼ばれるタマオシコガネ属の甲虫。
天空で太陽を運ぶ太陽神ケプリと同一視され、古代エジプトでは印章や装身具などのモチーフとして広く使用されました。
アメンヘテプ3世は、自分の治世に起こった重要なできごとを大型のスカラベに刻みました。これを「記念スカラベ」と呼んでいます。

これらのスカラベは、北はシリアから南はスーダンに至る非常に広い範囲の幾つかの遺跡から発見されています。
現在までに200を超える数のスカラベが知られており、世界各地の博物館や美術館に収蔵されています。
スカラベは、片麻岩や凍石に釉をかけたものなどで作られており、長さが7㎝~10㎝ほどのものが大多数を占めています。
記念スカラベには、(1)「結婚スカラベ」、(2)「野牛狩スカラベ」、(3)「ライオン狩スカラベ」、(4)「ギルケパ・スカラベ」、(5)「湖造営スカラベ」の5種類のものがあります。
今回の特別展で出品されているのは、(1)と(5)の2種類のスカラベです。
ヒエログリフを読むのにも、手ごろな教材として使うこともできます。


アメンヘテプ3世の記念スカラベ(王妃ティイとの結婚)
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
片麻岩 長さ:8.7㎝×幅:6㎝×高さ:3.4㎝
ウィーン美術史博物館
Kunsthistorisches Museum Vienna




結婚スカラベは、結婚のことを具体的に記したものではなく、アメンヘテプ3世の王名と王妃ティイの名前、ティイの両親の名前、そしてアメンヘテプ3世の支配している領域を示したものです。

特別展で展示されているスカラベは片麻岩製のもので、底面には以下のような10行のヒエログリフ(聖刻文字)が、右から左に向かって刻まれています。
1行目から4行目までは、王の5つの王名が記されています。古代エジプトの王は、(1)ホルス名、(2)二女神名(ネブティ名)、(3)黄金のホルス名、(4)即位名(上下エジプト王名)、(5)誕生名(太陽神の息子名)の名前をもっており、(4)と(5)はカルトゥーシュと呼ばれる楕円形の枠で囲まれました。
 
右:即位名(上下エジプト王名)のカルトゥーシュ
左:誕生名(太陽神の息子名)のカルトゥーシュ


4行目のアメンヘテプ3世の誕生名に続き、「偉大なる王の妻(ヘメト・ネスウト ウレト)」という称号が記されていますが、これは王の正妃(第一夫人)がもつ称号です。
そして5行目の先頭に王妃ティイの名前がカルトゥーシュに囲まれてあります。

王妃ティイのカルトゥーシュ

その後ろに、彼女の父の名前がイウイアであると記されています。
6行目の先頭には、5行目から続くイウイアの限定符(決定詞)である「座った貴人の姿」があり、続いて彼女の母の名前がチュウイアであると記されています。
最後の部分は、王妃ティイの夫であるアメンヘテプ3世の支配領域は、南はスーダンのカロイまで、北はシリア北部に位置していたミタンニ(ミッタニ)王国を表すナハリナまでと記されています。

この結婚スカラベで重要な点は、アメンヘテプ3世の正妃であるティイが、王族の出身ではなく中部エジプトのアクミームで強い勢力をもっていたイウイアと彼の妻チュウイアの娘であった事実を強調している点です。
一般に王妃ティイは、王族出身の女性ではなく庶民の出身であると強調されることがありますが、これは必ずしも正しくはなく、王族の女性よりもむしろ結婚することで王自身が有力な後ろ盾を得る可能性がある人物の娘であったと見なすことが出来ます。
また、ティイの父親の名前の「イウイア」とは、明らかにエジプト固有の名前ではなく、彼が外国に出自をもつ家系の出身者であると見られることも、興味深いことです。



アメンヘテプ3世の記念スカラベ(湖の造営)
新王国・第18王朝時代 アメンヘテプ3世治世(前1388~前1350年頃)
滑石 長さ:10.17㎝×幅:6.6㎝×高さ:4.45㎝
大英博物館蔵
(C)The Trustees of the British Museum, all rights reserved




結婚スカラベとともに、特別展に出品されているのが湖造営スカラベです。
この大型スカラベの銘文は、横書き12行のもので、結婚スカラベと同じく、ヒエログリフ(聖刻文字)が、右から左に向かって刻まれています。

結婚スカラベと異なるのは、1行目に王の治世年と月日が刻まれている点です。
「アメンヘテプ3世の治世11年のアケト季3月1日」と記されています。
古代エジプトの数字で10は、逆さにしたU字、1は縦線で記されます。
古代エジプトの暦(民衆暦)は、1年をアケト(増水)季、ペレト(播種)季、シェムウ(収穫)季という3つの季節に分け、それぞれに30日からなる月が4つずつ配されています。
つまり1年が12ヵ月で360日になります。それに、年と年との間に5日間の祭礼の日が置かれて365日としたのでした。

2行目から5行目の前半までは、結婚スカラベと同様にアメンヘテプ3世のホルス名、二女神名、黄金のホルス名、即位名、誕生名の順で、5つの王名が記されています。
5行目の後半部分には、偉大な王の妻(正妃)ティイの名前が記されています。
6行目3文字目からが、この銘文の主文になります。「(3月1日に)、陛下は王妃ティイのために、湖を造ることを命じました。」そして、その湖の説明が続いています。
まず、場所です。ジャルカの町と記されています。
次に湖の大きさとして長さが3700キュービット、幅が700キュービットと刻まれています。
キュービット(古代エジプト語でメフ)は、古代エジプトの長さの単位で、伸ばした腕の指先から肘までの長さを指し、「腕尺」とも呼ばれています。
1キュービットは約52.5cmで、長さ3700キュービットは1.9425km、幅700キュービットは0.3675kmにもなります。
古代エジプトの数字で、1000は蓮、100は渦巻きで表現されています。
 
左:1000(蓮)、写真は3000を表す/右:100(渦巻き)、写真は700を表す

そして、この湖の完成を祝う式典がアケト季の3月16日と書かれており、湖の造営を命じた3月1日から、わずか15日後のことです。
約2週間で長さが2km、幅が0.4kmの巨大な人造湖を造営したことにも驚かされます。
この人造湖は、かつては王都テーベ(現在のルクソール)の西岸にあるアメンヘテプ3世のマルカタ王宮(古代名は「喜びの家」)に造られた人造湖のビルカト・ハブとされていました。
しかしながら、大きさがビルカト・ハブは長さが3km、幅が0.9kmと違っているのと、マルカタ王宮の造営がアメンヘテプ3世の治世29~30年頃であることなどから、別のものであり、現在ではジャルカも王妃ティイの出身地のアクミーム付近の地名とされています。

また、銘文の最後にある記述にも驚かされます。
湖のオープニングの式典でアメンヘテプ3世が乗った船が「輝くアテン」という名前をもつことです。
言うまでもなく、アメンヘテプ3世の息子で後継者であるアメンヘテプ4世(アクエンアテン)が、唯一神として崇拝した太陽神アテンの名前が、アメンヘテプ4世(アクエンアテン王)の治世が開始される20年以上も前に父王の船の名前として登場することはとても興味深いことです。

アテンを表すヒエログリフ

わずか12行ほどの短い銘文ですが、これを読み解くことで今から2360年も前の歴史的事実を知ることができるなんて、すごいことだと思いませんか?


今回、近藤先生にご紹介いただいた2件のスカラベは、会場では、銘文の読み方とともに展示しています。
王妃ティイとアメンヘテプ3世の事蹟を、ぜひご自身で読んでみてはいかがでしょう。
皆様のご来館をお待ちしております。

何度でも楽しめる! 遮光器土偶の美に注目

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土偶(どぐう)とは縄文時代を代表する祈りの道具。粘土で作られた人形(ひとがた)で、縄文時代を代表する造形物としても人気があります。
当館で土偶といえば、教科書でもおなじみの青森県つがる市木造亀ヶ岡出土の遮光器土偶(以後、亀ヶ岡土偶と呼ぶ)が有名ですが、当館にはこれに匹敵する遮光器土偶の名品が所蔵されています。
それが、本館1室で展示中の宮城県大崎市恵比須田出土の遮光器土偶(以後、恵比須田土偶と呼ぶ)です。


重要文化財 遮光器土偶(亀ヶ岡土偶)
青森県つがる市木造亀ヶ岡出土
縄文時代(晩期)・前1000~前400年
遮光器土偶だけではなく、日本の土偶代表ともいえる土偶です。
1887(明治20)年に学界に報告され、広く知られるようになりました
※現在は九州に出張中のため展示されていません(九州国立博物館で開催の特別展で展示予定)。



重要文化財 遮光器土偶(恵比須田土偶)
宮城県大崎市田尻蕪栗字恵比須田出土
縄文時代(晩期)・前1000~前400年
本館1室 ~11月23日(月・祝)
亀ヶ岡土偶(晩期中葉)に年代的に先行する恵比須田土偶(晩期前葉)。
遮光器土偶は年代が新しくなるとともに、首が長く、胴が短く、腰が幅広に体の表現は変化していきます


恵比須田土偶は足先を欠くものの、ほぼ完全な形が残る希少なもの。
しかも、遮光器土偶としては大形のものです。
実はこの土偶、1943(昭和18)年に畑の耕作中に石囲いの中から偶然発見されました。
近来、いわゆる優品と呼ばれる大形で造形的にも優れた土偶が、遺構(住居や墓など過去の人びとが残した痕跡)から出土し、土偶の謎を解明するうえで注目されています。
「中空土偶」や「合掌土偶」、そして「縄文のビーナス」や「仮面の女神」といった愛称をもつ国宝土偶もその一例です。
多くの土偶が破片として出土するなかで、特別な扱いをされたこれらの土偶は、縄文時代の人びとの祈りの形を強く表わしたものといえます。

そもそも、遮光器土偶とは、縄文時代晩期(前1000年~前400年)の東北地方を中心に盛行した土偶です。
大きな特徴的な目の表現が遮光器(スノーゴーグル)に似ていたことから遮光器土偶と呼ばれるようになりました。
遮光器土偶の見どころは、極端にデフォルメされた体の表現とともに、全身に施された文様です。
縄文を施した部分と無地の部分と描き分けることで装飾効果を高めた磨消縄文手法を用い、多彩な文様が全身を覆うように表現されています。

 
恵比須田土偶の胴部(左:オモテ/右:ウラ)

一見複雑なこの文様、無地の部分に注目すると線対称と点対称とをうまく組み合わせて、三叉文や弧線文などの文様を配置していることがわかります。
そのルールがあるために、多彩な文様は煩雑に見えず、調和した印象を与えるのです。
ユーモラスな顔にデフォルメされた体、そして緻密な文様と何度も楽しめる、この遮光器土偶。
縄文人の祈りや想いとともに、そのデザインの妙も合せてお楽しみいただければと思います。

10月14日には平成館考古展示室がリニューアルオープンします。
展示室ではハート形土偶やみみずく土偶などさまざまな土偶たちが皆様をお出迎えいたします。
考古展示室のリニューアルにも、ぜひご期待ください。

いよいよ29日から!「博物館でアジアの旅」

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チラシ
昨年より始まった秋のトーハク恒例イベント「博物館でアジアの旅」。
今年は9月29日(火)~10月12日(月・祝)の開催です。
 


東洋館では、「発見!つながるアジアー文化交流の視点で楽しむ東洋館」と題し、交流をテーマにした展示を行います。
「形・文様」「技」「文字」「人」 をキーワードにそれぞれの作品をひも解き、背景にあるアジア各国・地域間の共通性と広がりをパネルで解説します。

その中心は3つの特集。
3つの特集
(左) 重要文化財 白磁鳳首瓶 中国 唐時代・7世紀 横河民輔氏寄贈 東洋館5室 特集「東洋の白磁―白をもとめ、白を生かす」にて展示
(中)三彩鎮墓獣 中国 唐時代・7~8世紀 横河民輔氏寄贈 東洋館5室 特集「漢・唐時代の陶俑」にて展示
(右)重要文化財 李白吟行図 梁楷筆 中国 南宋時代・13世紀 東洋館8室 特集「中国書画精華―日本における受容と発展―」にて展示


東洋館5室「東洋の白磁―白をもとめ、白を生かす」では、中国、ベトナム、朝鮮、日本各地でつくられた白磁・白釉陶をとりあげ、それぞれの文化的背景に基づいて独自に白い器を完成させてゆく様子を紹介します。

同じく東洋館5室「漢・唐時代の陶俑」では、中国の墓に副葬された焼き物の人形・陶俑を、漢・唐時代の優品を通してその魅力をご覧いただくとともに、明治から昭和の日本での受容の歴史も紹介します。
こちらの特集は、次の特別展「始皇帝と大兵馬俑」(10月27日(火)~2016年2月21日(日))とあわせてご覧いただくことで、兵馬俑の驚異的な写実表現と漢・唐時代の陶俑がもつ洗練された美をそれぞれ対比してお楽しみいただけます。

東洋館8室「中国書画精華―日本における受容と発展―」は、日本美術にも大きな影響を与えてきた中国の書画。それらの名品がいつごろ日本に伝えられ、どのような影響を与えてきたのか、日本における受容と発展に注目した展示となります。


このほかにも、キーワードを掲げた名品の数々を展示していますので、東洋館でゆっくりと旅をお楽しみください。


旅のご案内も充実。
セブンワンダーツアーでは、7人の研究員が添乗員となって、「交流」をキーワードに、皆様を60分のアジア旅行へご案内します。
気になるテーマを見つけたら、ぜひご参加ください。いずれも開始時間に東洋館1階 エントランスホールに集合です。

 

9月30日(水) 11:00~12:00「インドから東南アジアへ、仏像の旅
10月2日(金) 11:00~12:00「東洋の白磁 ―白いうつわをもとめて
10月3日(土) 11:00~12:00「文字でたどる朝鮮の歴史
10月6日(火) 14:00~15:00「トーハクでシルクロード探検
10月7日(水) 11:00~12:00「茶人の執着ここにあり!名物裂の世界
10月9日(金) 11:00~12:00「筆墨の伝える世界 ―東アジアのパスポート
10月12日(月・祝) 11:00~12:00「古代アジア青銅器の旅 なぜ人々は青銅に熱中したのか
 



アジアの雰囲気を味わいたい!という方には、
伝統芸能や伝統楽器の演奏会、伝統衣装体験、アジアン屋台をどうぞ。

イベント
(左) 着てみてポーズ! 中国・韓国・日本の伝統衣装(衣装体験)
(右)
韓国の伝統音楽 カヤグム(伽倻琴演奏と併唱) 

韓国伝統芸能 サムルノリ(太鼓演奏)
10月4日(日) 14:00~、15:30~ (各30分程度) 会場:東洋館前
※ 雨天の場合は平成館大講堂(雨天時は380 名、先着順)

韓国伝統音楽 カヤグム(伽倻琴演奏と併唱)
10月11日(日) 14:00~、15:30~ (各30分程度)
会場:平成館大講堂 定員:380名(先着順)

キルギスの伝統楽器コムズの調べ
10月6日(火) 13:00~、15:30~ (各30分程度) 会場:東洋館1室

中国の伝統楽器古箏(こそう)の調べ
10月9日(金) 13:00~、15:30~ (各30分程度) 会場:東洋館8室

着てみてポーズ! 中国・韓国・日本の伝統衣装(衣装体験)
期間中毎日開催(随時自由参加) 11:00~16:00 東洋館1Fエントランスホール


このほか、ぬりえやボランティアガイドも開催。
イベントスケジュールをチェックして、旅の計画を立ててみてはいかがでしょうか?
 

 

東洋の白磁の起源―中国・6世紀の鉛釉陶と白磁

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東洋館5室にて開催中の特集「東洋の白磁―白をもとめ、白を生かす」(12月23日(水・祝)まで)。
東京国立博物館では「描くやきもの―奔放なる鉄絵の世界(東洋の鉄絵)」(2007年)、「東洋の青磁」(2012年)と、中国、朝鮮、日本、東南アジアのやきものを一堂に集めて、その魅力を紹介する特集を企画してきました。今回の特集は「東洋のやきもの」特集第3弾です。

白磁はやきものの国、中国で生まれました。

その白い胎土は硬く焼き締まり、水をほとんど通しません。清潔感があってどんな料理にも合い、使いやすさからいまや私たちの日常の食卓に欠かすことのできないうつわです。また、ガラスのように薄く軽く、光を受けて輝く姿は、華やかな饗応の場でも見劣りすることはありません。そして青花や五彩といった色彩豊かな磁器の礎であることは言うまでもありません。

うつわの王ともいうべき白磁を白磁たらしめるもの、それは透明釉(とうめいゆう)と真っ白な胎土(たいど)です。

釉は、土をかためてうつわをつくり、高火度で焼き締めた際、燃料の灰がうつわに降りかかって偶然に生じたと考えられています。それははるか昔、商(しょう)(殷(いん))王朝の時代のこと。当時の釉はムラがあり、鉄分や不純物を含んで全体に緑色や茶色を帯びていました。水を通さず、素地をより清潔で堅牢なものにし、さらにガラスのように表面をつややかに美しくみせるという役目にはまだまだ未熟なものでありました。

精製された白い胎土に、不純物をできるだけ取り除いた釉が掛かった白いやきものが登場したのは、それから2000年も経った6世紀頃のことです。このときつくられたのは、白い素地に低火度釉の鉛釉(なまりぐすり)の透明釉を掛けた鉛釉陶と、白い素地に高火度釉の透明釉を掛けた白磁、この2種類に大きく分けることができます。

2010年(平成22)に開催された夏季特別展「誕生!中国文明」を皆様覚えていらっしゃるでしょうか。夏(か)王朝誕生の地であり、商(殷)が拠点を置き、以降東周(とうしゅう)、後漢(ごかん)、魏(ぎ、三国時代)、西晋(せいしん)、北魏(ほくぎ)と歴代の王朝が都を構えた歴史上きわめて重要な地として知られる中国・河南(かなん)の出土遺物を集めた展覧会でした。

展覧会が開かれる前年、同僚の研究員らとともに私ははじめて河南省を訪ねました。中国陶磁を専門にする私の担当は、鄭州(ていしゅう)と洛陽(らくよう)で唐三彩を調査すること。とくに洛陽は唐時代、長安(西安)にならび栄えた都市。唐の貴人墓からは三彩が大量に出土し、程近い鞏義(きょうぎ)では窯址も見つかっています。まさに唐三彩の中心地に降り立ったのでした。

しかし、三彩や五彩のように華やかに彩られたやきものよりも、白や黒、青といった単色のやきものにどうしても惹かれてしまう私(専門は青磁です)。鄭州にある河南博物院の展示室のなかでもっと面白いものはないかとぶらぶら歩いていたところ、ある一画に目を奪われました。北斉(ほくせい、550~577)の高官、范粹(はんすい)の墓(安陽市)から出土した鉛釉の白いやきものと、隋(ずい、581~61)の官吏であった張盛(ちょうせい)の墓(安陽市)から出土した白磁です。

張盛墓出土女子俑
張盛墓出土女子俑(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません)
張盛墓からは、特別展「誕生!中国文明」に出品された白磁鎮墓獣(ちんぼじゅう)・武人俑のほかに100件近くの動物や人物の俑が出土しました。こちらの加彩の女子俑の手には香炉や盤、茶碗のようなさまざまなうつわが見え、当時の上流階級者のゆたかな生活の様子をうかがうことができます

張盛墓出土明器
張盛墓出土品(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません
張盛墓からは大量の俑に加え、壺や瓶、灯、碗のほか、井戸やかまど、倉などのミニチュアもたくさん見つかりました。この画像にみるうつわはみな白い素地にやや緑色を帯びた高火度の透明釉が掛かっており、中国では「青瓷(せいじ)」と報告されていますが、この釉が精製されてより透明に近づくとまさに白磁とよぶべきものです


范粹墓出土三彩三耳壺
范粹墓出土三彩三耳壺(中国・河南博物院にて。本特集には展示されていません
この作品は
特別展「誕生!中国文明」に出品されたもの。胎土は白いですが、胴部の途中まで白土で化粧をし、鉛釉の透明釉を掛け、さらに肩から緑釉を細く流し掛けています

これらは大量の副葬品で注目を集めただけでなく、中国白磁の展開を知るための「教科書」のような、研究者にとっては憧れの存在。なぜならば6世紀、北斉や隋の高貴な人々に強くもとめられた「白い」やきものは、その後中国陶磁が造形・装飾ともに大きく進化し、人々の生活にひろく浸透してゆく直接的な祖であり、基盤になったといえるものです。その象徴が范粹と張盛、二人の墓の出土品なのです。

今回の特集では、北斉、6世紀の白釉陶が3点出品されています(常盤山文庫(ときわやまぶんこ)所蔵 白釉突起文杯・三彩瓶・三彩四耳壺)。三彩の2点は化粧をしておりませんが、范粹墓出土の三彩三耳壺によく似ていることがわかります。緑や黄、藍などの色釉を掛けて彩る三彩は、白い素地にこそ映えるもの。これらは、唐三彩の前段階の三彩と位置づけることができます。

三彩瓶・三彩四耳壺・白磁四耳壺
(左) 白磁四耳壺  中国 唐時代・7世紀 個人蔵
(中) 三彩四耳壺 中国 北斉時代・6世紀   常盤山文庫蔵
(右) 三彩壺 中国 北斉時代・6世紀   常盤山文庫蔵

奥にならぶのは、個人蔵の白磁四耳壺。7世紀に位置づけられるもので、白く硬い胎にやや緑色を帯びた高火度焼成の釉が掛かっています。こちらは前述の張盛墓から出土した「青瓷」に雰囲気がよく似ています。鉛釉の白いやきものと白磁、展示室で見比べてみてください


これらのほかにも、展示では唐、宋、元時代の白いやきもの、ベトナム・日本・朝鮮の白いやきものなど、表情ゆたかな白いうつわをたくさん集めました。「博物館でアジアの旅」(9月29日(火)~10月12日(月・祝))の機会に、中国にはじまる白磁技術の伝播をたどりながら、それぞれ異なる見どころをぜひ見つけてお楽しみいただきたいと思います。



参考文献:拙稿「白い器を求めて―河南における白磁の展開―」『誕生!中国文明』展覧会図録、『常盤山文庫中国陶磁研究会 会報3 北斉の陶磁』2010

 

守って踊れる! 兵馬俑

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ほほーい! ぼく、トーハクくん。
この夏は古代エジプトのおねえさんたちに囲まれて楽しかったんだほー!!
だから、展覧会が終わっちゃって、さみしいんだほ・・・。
将軍寂しがることはないですぞ!
・・・?
将軍なぜなら、秋には我々がやってくるからだ!


兵馬俑(左から立射俑、歩兵俑、将軍俑、軍吏俑、跪射俑)


百戦錬磨の風格が漂う将軍俑

すべて秦時代・前3世紀 秦始皇帝陵博物院蔵
(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心・秦始皇帝陵博物院


しょ、将軍?!
将軍特別展「始皇帝と大兵馬俑」では、皆を率いてトーハクに参りますぞ。
おじさんばかりで、こわいんだほ・・・。おねえさんがいいんだほ(ボソッ)。
将軍何とも失敬な埴輪だな。
我々の迫力は皆の認めるところだが、決しておびえることはないぞ。ほら、これを見てみるがよい。


※写真はイメージです

将軍がおどっているんだほ!
将軍スマートフォンやタブレットがあれば、私のダンスを見ることができますぞ。
専用のアプリをインストールして、チラシの兵馬俑の写真にかざしてみるとよかろう。

 

無料アプリ「朝日コネクト」をインストールして起動。
あとは、兵馬俑の写真にかざすだけでOKだほ


ぼくも踊りにはうるさい方だけど(※)、将軍のダンスはキレキレで、なかなかのものなんだほ。
※トーハクくんのモデルは「埴輪 踊る人々」です。
将軍発売中の前売券にかざしてもダンスが見られますぞ。
始皇帝の地下宮殿を守るだけじゃなく、ダンスもできるなんて、将軍はスゴイ人なんだほ。
将軍しかも私は、ツイッターもしているのだ!
ほー! 今から2200年も前の人なのに、現代にばっちり対応しているなんて、ますますスゴイほ。
将軍我が始皇帝陛下も、貨幣や度量衡を統一したり、高度なインフラを整備したりと、先進的な政治を行ったからな。
臣たる私も、これくらいはできるのだ。・・・ときどき、失敗してしまうのだがな。
なるほー!
将軍トーハクくんよ、我々の魅力がわかったかな?
イエッサー!だほ。
将軍さらに会場では、我ら兵馬俑の魅力と迫力を皆に伝えるべく、発掘現場「兵馬俑坑」を再現しますぞ。
楽しみな展覧会だほ!
将軍10月27日(火)の開幕を、刮目して待たれよ。

中国書画精華―日本における受容と発展―

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過ごしやすい季節となりました。少々気は早いですが、新米に紅葉、博物館と、この時期ほど日本を感じられる季節はないのではないでしょうか。

約1か月間のお休みをいただき、展示環境の調整を行っておりました東洋館8室。現在は、特集「中国書画精華―日本における受容と発展―」(~2015年11月29日(日)、一部展示替えあり)を開催中。文化交流をテーマにした「博物館でアジアの旅」(~2015年10月12日(月・祝))の筆墨ツアー(10月9日(金) 11:00~)にもなっています。
本場の中国でもなかなか見られない書画の名品が一堂に会するこの企画は、東洋館8室の秋の風物詩となりました。今年は日本における受容と発展に注目しながら、中国書画の尽きせぬ魅力をご紹介します。

展示風景

本展の見どころの一つに、禅宗僧侶の書「墨跡」があります。平安時代末以降、南宋・元に渡った日本の禅僧は参学修行の証として、頂相や袈裟など様々なものを請来しました。そのなかには臨済宗楊岐派の高僧の書が多くみられ、また幕府の招聘を受けて来日した中国僧も多くの書を残しました。
もとは墨で書かれた筆跡を指す墨跡という言葉は、日本において、中国からもたらされた禅僧の書、更には日本の禅僧の書をも含めて、独特の意味合いをもつようになり、禅林のみならず将軍家、貴族、町衆らの間でも珍重されていきました。そこには、南北朝時代に五山の禅僧により詩文書画の応酬など文芸活動が活発に行われたこと、そして、室町時代以降の茶の湯の普及と展開、すなわち茶室の床飾りとしての墨跡鑑賞の流行が背景にあります。中国禅僧の書は、母国では見られない鑑賞法のもとに新たな意味づけがなされて、受容されていきました。

重要文化財 禅院額字「釈迦宝殿」 無準師範筆 

国宝 禅院額字「旃檀林」 張即之筆
上:重要文化財 禅院額字「釈迦宝殿」 無準師範筆 
南宋時代・13世紀 京都・東福寺伝来 東京国立博物館蔵(梅原龍三郎氏寄贈)
下:国宝 禅院額字「旃檀林」 張即之筆
南宋時代・13世紀 京都・東福寺蔵

ともに博多・承天寺の創建(1242)に際して、無準師範が弟子で同寺開山の円爾弁円に送ったとされる額字(懸額の書)。これらの額字・牌字(看板の書)には、2種類の書風が認められ、無準のほか南宋の能書家、張即之筆と伝承されるものがあります。張即之は無準門や大慧派の禅僧と広く交流し、南宋禅林では張の書風が流行したと言われます。円爾の請来品や、張風の書をよくした渡来僧を介して、張即之の書法は墨跡とともに日本で受容されることとなりました。


もう一つの見どころは、足利将軍家のコレクション「東山御物」に収められた南宋を主とする中国絵画です。東山御物は、すでに三代将軍義満(在位1368~1394)の頃にその中核が築かれ、六代将軍義教(在位1428~1441)の代に最も充実するところとなった唐物コレクションです。会所を鑑賞の場として、将軍と近侍する同朋衆により座敷飾りの取り合わせが考えられ、時に天皇の御成などに際しても、選りすぐりの逸品で各室が最上の空間に飾られました。東山御物中の唐絵には、鑑蔵印等を工夫して異なる作品を対に仕立てたものや、大幅・巻子を切断したものなどがあり、将軍・同朋衆が自らの美意識のもとで極めて積極的な鑑賞を行っていたことが窺えます。

梁楷の三幅対
中:国宝 出山釈迦図 梁楷筆 南宋時代・13世紀
東京国立博物館蔵 ※10月27日(火)から展示
左:
国宝 雪景山水図 梁楷筆 南宋時代・13世紀
東京国立博物館蔵 ※10月27日(火)から展示
右:
国宝 雪景山水図 伝梁楷筆 南宋時代~元時代・13~14世紀
東京国立博物館蔵 ※修理中のため、本展では出品されません
もとは別物として伝来したものを、中幅に「出山釈迦図」、左右幅に2種の「雪景山水図」を配する三幅対に仕立てて、東山御物として鑑賞されました。



御物御画目録
御物御画目録 伝能阿弥筆 室町時代・15世紀 東京国立博物館蔵
同朋衆の能阿弥が、東山御物中の唐絵を、料紙の種類や画面の大きさ・対幅の形式で分類し、画題・画家を記録した『御物御画目録』の写本。収録されるすべてが宋・元の絵画で、上掲の3幅対は「出山釈迦 脇山水 梁楷」(の部分)に相当します。


このほか、近代以降に伝来したいわゆる「新渡り」の書画も見逃せません。中国で正統とされ、これまで日本人が決して目にすることのできなかった宋から清に至る本格的な書画は、日清修好条規の締結(調印1871)を契機とした日中間の文化的交流や、義和団事件(1900)・辛亥革命(1911)をきっかけとした中国文物の流出を背景として、明治時代以降、日本に少なからずもたらされました。戦後、当館にご寄贈いただいた高島菊次郎(1875~1969)や青山杉雨(1912~1993)のコレクションなどには、中国伝統の文人趣味が反映され、彼らの熱意ある収集活動がなければ、今日、これほどまでに中国書画を身近に感じることはできなかったでしょう。

行草書十詩五札巻

雑画冊 陳鴻寿筆 清時代・嘉慶22年(1817)

上:行草書十詩五札巻 鮮于枢筆 元時代・13世紀 東京国立博物館蔵(高島菊次郎氏寄贈)
下:雑画冊 陳鴻寿筆 清時代・嘉慶22年(1817) 東京国立博物館蔵(青山慶示氏寄贈) ※10月25日(日)まで展示


日本にもたらされた中国書画は、それまでとは異なる価値基準のもとに、新たな鑑賞法や意味が見出され、大切に伝えられてきました。日本における中国書画をめぐる文化に、少しでも触れていただければ幸いです。

 


オープンまで1週間! 平成館考古展示室

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10月14日(水)、平成館考古展示室がリニューアルオープンします。
これに先立ち、10月5日(月)、報道関係者向けに展示室を公開しました。
今回は、その模様をお伝えするとともに、新しい展示室をチラリとご紹介します。

冒頭、副館長の松本伸之よりご挨拶を申し上げたあと、早速、展示室の扉が開かれます。
すると…


国宝 埴輪 挂甲の武人
群馬県太田市飯塚町出土 古墳時代・6世紀
展示室では背負った靫(ゆき)もご覧いただけます


「埴輪 挂甲(けいこう)の武人」が出迎えてくれました。
埴輪では唯一の国宝指定の作品です。
「何か見たことがあるような…?」と、特定の世代の出席者がざわめきます。
そうです、某テレビ局が1980年代に放映していた某こども向け番組のキャラクター「はに○」に、似ているのです!
それだけ埴輪界では有名な作品ということですね。

チラシでも、ト-ハクのプリンスとして活躍中です

展示室では、4人の研究員がリレー方式でギャラリートークを行いました。
考古室長がリニューアルの概要を説明した後、旧石器~弥生時代、古墳時代、飛鳥~江戸時代の各担当者が、それぞれ見どころを解説しました。

担当者それぞれが思い入れをもって臨んだ今回のリニューアル。
解説にも熱が入ります


そう、ポイントは旧石器時代から江戸時代まで、考古遺物で日本の歴史をたどれることなんです!
トーハクの考古コレクションの特徴は、時代・地域を限定しない幅の広さなんです!
しかも、教科書にも登場するような、有名で資料的価値の高い作品を多く所蔵しているんです!!

そのため、「どの時代にどんなモノがあったの?」という考古学ビギナーさんにも、「埴輪が大好き!」という特定の時代・遺物を愛する人にも、ご満足いただける展示になっています。

今後も、1089ブログで研究員が見どころを紹介していきます。
そして、トーハクのプリンスに密かなジェラシーを燃やしているあの子も…。

ぼくが広報大使なんだほ!

美術作品だけにとどまらないトーハクの魅力、ぜひ考古展示室でお確かめください。

漢・唐時代の陶俑

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東洋館3階の5室では、12月23日(水・祝)まで特集「漢・唐時代の陶俑」を開催しています。

展示風景
展示会場風景

陶俑とは、兵士・召使・芸人などのさまざまな人物や動物の姿を写したやきものの像のことです。古来中国の人々は死後も霊魂が存在すると信じ、親や先祖の霊魂が不自由なく暮らせるよう心を砕き、こうした像を作って墓に副葬してきました。本格的な始まりは、紀元前5世紀の春秋戦国時代まで遡ります。
その後、各時代の風俗や流行をも形に写した陶俑は、時代ごとの異なる特徴と魅力を具えるようになりました。なかでも、漢時代(前206~後220)の陶俑は素朴な造形のなかに文化の成熟を、唐時代(618~907)の陶俑は華やかさのなかにシルクロードを通じて伝わった西方諸国の影響を認めることができます(写真下)。
本特集は、トーハクの所蔵もしくはお預かりしている陶俑のなかでも、優品の多い漢・唐時代の作例を選りすぐり、一堂に集めて紹介するものです。

加彩女子と三彩女子
左:加彩女子 前漢時代・前2世紀 高さ57.0㎝ 広田松繁氏寄贈
右:三彩女子 唐時代・8世紀 高さ14.3㎝ 横河民輔氏寄贈


さらに、今回の特集では、トーハクをはじめとする日本の博物館や美術館が陶俑を蒐集してきた経緯についても光を当てます。
陶俑は20世紀初頭に中国河南(かなん)省の墳墓から偶然出土したのを契機に、骨董市場に流出し、おもに欧米の人々が競って求めました。日本の市場では、墓の出土品であり、また、伝統的な茶道具と馴染まないものだったため、陶俑はなかなか受けいれられませんでした。
そのようななか、陶俑をいちはやく評価したのが大正・昭和に活躍した実業家や芸術家でした。本特集では、横河民輔(よこがわたみすけ、1864~1945)、中野欽九郎(なかのきんくろう、1863~?)、大倉喜七郎(おおくらきしちろう、1882~1963)といった実業家ゆかりの陶俑のほか、山口蓬春(やまぐちほうしゅん、1893~1971)、安田靫彦(やすだゆきひこ、1884~1978)、小林古径(こばやしこけい、1883~1957)などの作品に描かれた陶俑に注目し、静物画の画題や歴史画の考証資料として陶俑を愛蔵した画家たちの慧眼に迫ります。会場では、上記した画家たちの作品(パネル)と、画中の陶俑および陶俑を参考にして描いた人物に似た類例を並べて展示します。


山口蓬春筆「三彩俑」と三彩女子
左:山口蓬春筆「三彩俑」写生 昭和31年(1956)60.8×35.8㎝ 紙本・鉛筆、色鉛筆 神奈川県立近代美術館蔵(画像提供:公益財団法人 JR東海生涯学習財団)
右:三彩女子 唐時代・8世紀 高さ43.7㎝ 鈴木榮一氏寄贈

 

小林古径筆「唐俑」と加彩舞女
左:小林古径筆「唐俑」昭和25年(1950) 85.0×55.0㎝ 紙本着色 山種美術館蔵(画像提供:山種美術館)
右:加彩舞女 唐時代・7~8世紀 高さ38.5㎝ 広田松繁氏寄贈


本特集の会期中、10月27日(火)には平成館2階の展示室で特別展「始皇帝と大兵馬俑」が開幕します(2016年2月21日(日)まで)。
始皇帝(前259~前210)の作らせた兵馬俑もまた、長い歴史をもつ中国の陶俑の一種ですが、等身大の大きさ、服のしわや髪の櫛目といった細部まで徹底的に写した造形は、他の時代の陶俑にはない特徴です(写真下左)。このほか、兵馬俑に先行して戦国時代の秦で作られた小型の陶俑も展示します(写真下右)。
今秋のトーハクでは、戦国・秦時代から唐時代まで陶俑の流れを一気に概観することができます。始皇帝の兵馬俑がもつ圧倒的な写実表現と、漢・唐時代の陶俑がそなえる洗練された美の両方を堪能できる、めったにない機会をお見逃しなく。

将軍俑と騎馬俑
左:将軍俑 秦時代・前3世紀 高さ195.0㎝ 中国陝西省臨潼区秦始皇帝陵1号兵馬俑坑出土 秦始皇帝陵博物院蔵

(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心・秦始皇帝陵博物院
右:騎馬俑 戦国時代・前4~前3世紀 高さ22.0cm 中国陝西省咸陽市塔児坡28057号墓出土 咸陽市文物考古研究所蔵
(C)陝西省文物局・陝西省文物交流中心

 

トーハクくんがいく! 新しくなった考古展示室

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ほほーい! ぼくトーハクくん!
ついに、考古展示室がリニューアルオープンしたんだほ!!
待っていたほ(泣)。ずっと楽しみにしていたんだほ(号泣)。

というわけで、さっそく広報大使として考古展示室に行ってきたほ。

まずは、入口で迎えてくれるトーハクのプリンスに注目だほ。
 
国宝 埴輪 挂甲(けいこう)の武人

ポスターにもチラシにも1089ブログにも登場しているから、すっかりお馴染みだほ。
ケースが新しくなったから、ユリノキちゃんのハートを射止めた顔や、背中の武具や、鎧の細かいかざりまでよーく見えるほ。

そして、ここからが展示の本番だほ。
はじめの展示は「旧石器時代」(写真左)。展示室のなかはぐるりと壁ぞいに展示室ケースが並んで、最後は「江戸時代」(写真右)…。
  

…ふむふむ。ということは、壁ぞいに展示室を1周すれば日本の歴史がわかっちゃうんだほ!?
わんだほー! わかりやすいんだほー!

展示の方法も、もっとわかりやすくなったらしいほ。
たとえば、縄文時代の土器のコーナーでは、古いものから順番に並んでいるから、だんだん形がかわっていくのがわかるほ。


よーく見ると、いろんな形や文様があるんだほ。
時代や地域によってちがいがあったり、似ているところもあったりして、おもしろいんだほ。

おっと、縄文時代といえば、土偶センパイを忘れちゃダメほ。
土偶センパイ、おつかれっす!
 
トーハクのプリンセスとして活躍中の重要文化財「みみずく土偶」センパイはこちらにいます

土偶センパイがいるのは「縄文時代の祈りの道具・土偶」というテーマの展示コーナーだほ。
壁ぞいに1周できる展示とは別に、時代ごとにテーマ展示もあるんだほ。


さて、弥生時代までを見て角をまがると・・・キタ―!
埴輪(ともだち)がいっぱいだほ! 近いほ! 大興奮なんだほ~!!
 
リニューアルを機に、新しく展示台を作り直しました
※トーハクくんは展示されていません


そして、こっちがうわさのVIPルームだほ。中からただならぬ気配が漂ってくるほ。
 
国宝 銀象嵌銘大刀(江田船山古墳出土)と重要文化財 石人(岩戸山古墳出土)という、2件のためだけの展示コーナー


石人の背中には靫(ゆき/矢を携行するための武具)が表現されています。
360度見える展示、貴重です



土偶センパイにも埴輪にも挨拶をすませたし、残りはぱぱっと見るほ…なんて思った人! もったいないこと禁止だほ。
「リニューアルでいちばん変わったのは、実は飛鳥時代以降の展示なんだよね」って、研究員さんが言ってたほ。
作品もテーマもレイアウトも展示方法も、たくさん変わったんだほ。

たとえば古代の瓦は、葺き方がイメージしやすいように展示方法を変更したんだほ。


平安時代のコーナーでは、こんなかわいい像に出会えるほ。
土偶センパイや埴輪に続く、次世代アイドルを目指しているほ。
 
重要美術品 押出蔵王権現像

お金の展示も充実したほ。小判の金色がま、まぶしい!


奈良時代~平安時代の銭(写真上)と江戸時代の小判(写真下)

今まであまり展示されなかった作品も、実は公開されているんだほ。

石製塔婆の一種である板碑が立ち並ぶ、中世の展示コーナー。
本格的な展示も、立てた状態での展示も、今回が初めてです


他にも、縄文時代の石棒や江戸時代の慶長大判も、長期間展示されるのは初めてらしいほ。
しかも、一部の作品は約半年ごとに展示替えをするから、これからの展示も楽しみなんだほ。

ああ、見どころ盛りだくさんで、コーフンがおさまらないほ!
これは研究員さんにもっと話をきくしかないほ。
ちょっといってくるほー。

一体どんな話が聞けるのでしょう? 今後の見どころ紹介にご期待ください

声が見えたら、何か変わるかもしれない

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トーハクに勤めて何年かした頃、私はふと気づきました。
聞こえない人には私たちの声を伝えられていない、と。
音声ガイドや講演会、ギャラリートークなど、博物館側はみなさんに様々なサービスや情報を、音声を通して提供し、博物館や文化財の魅力を伝えています。
でも、その声を届けられていない人たちがいることは悲しく、寂しく、悔しいことです。

作品には解説文もついているし、見えているからいいじゃないか。
そんな意見もあるかもしれません。
でも、聞こえないために使えないというサービスを使えたら、もっと鑑賞が深まり、楽しめるかもしれません。
そのチャンスはあるべきだと思うのです。

手話通訳をつければいいじゃないか。
そうおっしゃる方もいるでしょう。
でも、手話をコミュニケーション手段としているのは聴覚障害者全体の約2割。
手話は手の動きにだけでなく表情なども合わせて表現していること、専門用語を伝えるための手話がないということもあり、手話通訳をつければ万事解決とはいきません。

どうしたら伝えられるだろう。どうしたら博物館を楽しんでもらえるだろう。
残念ながら、聞こえない方を対象とした、博物館での鑑賞に関する先行研究はほとんどありません。

声は見えません。
でもその声がもしも見えたら・・・

様々な方に協力いただきながら検討をすすめるなかで、音声認識技術を使ったアプリのテストをしましたのでご報告します。

音声認識技術は、聞こえない人、聞こえにくい人と、聞こえる人がコミュニケーションを行うとき、聞こえる人の声を文字に変換するものです。
実はこの音声認識技術を用い、話した内容がパソコンやタブレット、スマートフォンといった端末画面に、文字として出てくるアプリが開発されているのです。
これは手話や要約筆記を補完する新しいコミュニケーションツールとして、また手話を使わない聴覚障害者にも広く使われています。
私がこれを知ったのも、実際に活用している聞こえない方からの紹介でした。

端末
専用アプリの画面
 
テストは体験型ワークショップ「能の裏側体験!」(2015年9月12日)、月例講演会「日本美術が面白くなる様々な見方」(2015年10月10日)の2回行いました。
音声認識ソフトの有用性についてのテストとなりました。
それぞれ聞こえない方にモニターとして参加していただき、音声認識技術を用いたアプリの有用性を検証しました。

講師の声はほぼリアルタイムで文字化されます。
もちろん誤変換もありますが、スタッフがパソコンで修正すればすぐに全端末に反映されます。
つまり、従来の手話や要約筆記などのコミュニケーションツールの課題であった情報を得るまでのタイムラグがかなり解消されました。

映写室
講演会会場の映写室にて端末を操作
 

体験型ワークショップ「能の裏側体験!」で、いくつかの課題が明らかになりました。
ひとつは展示室での作品鑑賞の際に、本館展示室のネットワーク環境の問題により機能が一時とまってしまうというアクシデント。これはトーハクスタッフのノートテイク(筆記通訳)で乗り越えました。
さらに、能の動きを体験するときには、タブレット端末を自身で持つことが出来ないので、スタッフが代わりに持ち、手話などを交えてフォローしました。
 
能の裏側体験ワークショップ
体験型ワークショップ「能の裏側体験!」より展示室での鑑賞(左)、動きの体験(右)での様子

移動をしたり、体験したり、という場面ではまだまだ工夫が必要です。
一方、座学形式の講演会では、他の参加者の皆様のご理解もあり、大きな問題もなく、このツールの有用性が確認できました。

とはいえ、端末を確認してから、会場に投影された画像を見るという煩雑な視線移動が必要であることに変わりはありません。話者の声色の変化、抑揚などを伝えるのは難しい部分もあります。また、文章を読み書きすることが苦手な聴覚障がい者もいるため、文字化だけですべて解決ともいえません。

モニターのアンケートに書かれた感想です。
「文字表示の速さ、忠実さ、ほぼ発言通りの内容にとても快適さを覚えた。機器も軽く薄く持ち運びしやすかった。文字の大きさも自由自在で自分の好みに換えられて便利だった。移動も容易であることがありがたい。人間を介しないので気を遣わなくてすむのが一番助かる。」
「以前から興味のあった能の世界に触れることができ、大変楽しませていただきました。」


声は見えないものです。
見えない声を見えるようにしたことで、多くの人と共有できる情報や学び、楽しみがある。それを利用すれば、聞こえない人たちにとっての博物館は変わることができるかもしれない。
聴覚障がい者だけでなく、高齢者や日本語学習者などにも有用である可能性もあるでしょう。
情報保障サービスの本格導入にはまだまだ課題があります。
すべてのひとに楽しんでいただける博物館を目指し、一歩一歩進んでいきたいと思っています。
 

考古展示室、見どころガイド(旧石器~弥生時代)

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平成館考古展示室がリニューアルオープンしてはや10日が過ぎました。
みなさん、足を運んでいただけましたでしょうか。

今回は私、品川が担当する旧石器時代から弥生時代までの見どころをご紹介したいと思います。
考古展示室は、通史展示と個別のテーマを取り上げたテーマ展示から構成されています。
壁沿いを反時計回りに見ていく通史展示が本線。
これから外れたテーマ展示が支線、いや寄り道とでもいえるでしょうか。

まずは通史展示から。
壁沿いのケースを見ると、ひと目でどの時代か分かるように、旧石器時代では黒曜石の原石、縄文時代では大形の石棒(せきぼう)、弥生時代では銅鐸(どうたく)というように、それぞれの時代を象徴する作品を各時代の目印として展示しています。
実は黒曜石の原石や大形の石棒、平成館考古展示室では初めて展示するものです。
大きさや形だけではなく、素材そのものがもつ質感にも注目してください。

黒曜石原石
北海道遠軽町出土
旧石器時代(後期)・前18000年
個人蔵



石棒
(左)出土地不詳 徳川頼貞氏寄贈
(右)山梨県富士川町平林出土 保坂長治郎氏寄贈
2件とも縄文時代(中期)・前3000~前2000年



突線鈕4式銅鐸
静岡県浜松市北区三ヶ日町釣(分寸)出土
弥生時代(後期)・1~3世紀



縄文時代は弓矢や土器が発明され、人びとが定住し始めた時代です。
この時代の土器は、縄目を使った模様をもつものが多いことから縄文土器と名づけられています。
縄文時代の通史展示では、時代の名どころとなった縄文土器の変遷をご紹介しています。
縄文土器の代表例の一つといえば火焰型土器(新潟県・信濃川流域で盛行)が著名ですが、ほぼ同じ頃に関東地方で盛行するのが勝坂(かつさか)式土器です。
縄文時代の通史展示では勝坂式土器の基準資料である東京都国分寺市多喜窪(たきくぼ)遺跡第1号住居跡出土土器を新たに展示しました。
火焰型土器とはひと味もふた味も異なるこれらの土器のなかには、蛇体表現をもつ土器もあります。
また多喜窪遺跡第1号住居跡から出土した土器は縄文時代の考古資料としてはじめて一括指定された重要文化財でもあります。縄文時代の通史展示では、千姿万態ともいえる縄文土器の造形を存分にお楽しみください。

多喜窪遺跡第1号住居跡の出土土器


火焰型土器
伝新潟県長岡市馬高出土
縄文時代(中期)・前3000~前2000年
本館1室で展示中(12月23日(水・祝)まで)



縄文時代の通史展示を見ていると、きっと土偶(どぐう)や銅鐸がおのずと目に入ってくるはずです。
その先にあるのがテーマ展示。縄文時代と弥生時代では7つのテーマ展示をご用意していますので、積極的に寄り道していってください。
縄文時代や弥生時代の実用的な道具とともに、装身具や祈り・祭りに使われた道具を取り上げています。


ときおり展示室の様子をのぞきにいきますが、ケースのガラスに鼻が触れた痕跡がしばしばついているのを発見します。
その痕跡の先にあるのはわが館でも人気者の土偶。
今回のリニューアルでは、土偶の展示している場所を、通史展示からテーマ展示へと変更しました。
新たに土偶を展示しているケースでは、これまでよりもずっと間近で土偶とその仲間たちをご覧いただけます。


縄文時代の土偶はこれまで2万点ほど発見されていますが、各時期の土偶はもちろん、後期を代表するハート形土偶や筒形土偶、山形土偶やみみずく土偶を展示しています。
ハート形土偶やみみずく土偶はみなさんにもお馴染みのもの。
新居に引っ越した土偶たちに会いに来てください。

(左)筒形土偶
神奈川県横浜市 稲荷山貝塚出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
個人蔵
(右) 重要文化財 ハート形土偶
群馬県東吾妻町郷原出土
縄文時代(後期)・前2000~前1000年
個人蔵



いつも見慣れているものでも、少し展示している場所が変わるだけで印象が変わることがよくあります。
今回のリニューアルではこの銅鐸、いつも見慣れている私たちでも大きくなった? と口にしてしまうほどです。

重要文化財 突線鈕5式銅鐸
滋賀県野洲市小篠原字大岩山出土
弥生時代(後期)・1~3世紀


通称「大岩山1号銅鐸」とも呼ばれる日本最大の銅鐸で、最も新しい段階の銅鐸です。
高さ約134cm、重さ約45kgと、小学5・6年生と同じくらいの大きさでしょうか。


テーマ展示「弥生時代の祭りの道具―銅矛、銅剣、銅戈と銅鐸―」

銅鐸は弥生文化を特徴づける青銅器です。
20cm前後の小さな「かね」として誕生した銅鐸は、徐々に大きくなるとともに、鳴り物としての性格を変え、祭器しての役割を高めていきます。
当館の弥生時代の青銅器コレクションは日本随一のもの。こちらもぜひお見逃しなく。

考古展示室の作品は本館の作品と比べて、とってもはにかみ屋です。
いつもよりも作品に一歩近づいて、ゆっくりとリニューアル後の考古展示室をお楽しみいただければと思っています。

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